兄弟という、もう一人の自分
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兄弟という、もう一人の自分
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家族の死を前に
第3章:兄弟という、もう一人の自分
兄弟の死。
それは、両親とも、子どもとも違う――
言葉にならない痛みを伴います。
なぜでしょうか。
それは、
兄弟が「自分の人生の記憶」と、深く絡み合っているからなのです。
笑った記憶も、喧嘩した記憶も、
失敗も、成功も――
すべてにその姿が“隣”にあったから。
だから、
その存在がこの世からいなくなるとき、
私たちはただ一人、
**“自分の過去が消えていくような喪失”**を味わうのです。
兄弟とは、「魂の同期」です。
血がつながっているだけではなく、
生まれた環境、親の姿、幼少期の風景を――
同じ視点で共有できる唯一の存在。
それだけに、
理解しすぎて、距離を置いたり。
近すぎて、傷つけてしまったり。
でも、本当は分かっているはずなのです。
どんなに離れていても、
「この人だけは、私の原風景を知っている」と。
だからこそ、
兄弟の死は「関係性の死」ではなく、
“もう一人の自分の終わり”に直面するような感覚を伴います。
どこか、鏡の中の自分を失うような――
そんな喪失。
兄の訃報は、突然でした。
電話の向こうの声が震えていて、
その意味を理解するのに、少し時間がかかりました。
家族の中で一番活発で、
子どもの頃、私を何度も守ってくれた兄。
思い出の中の彼は、
今でも走っていて、笑っていて、
そして、少し意地悪で、頼もしかった。
…その彼が、もういない。
通夜の夜、
兄の顔を見たとき、思わず涙がこぼれました。
けれど、不思議なことに、
それは「哀しみ」だけではなかったのです。
むしろ、あたたかく、
長い間、胸の奥にしまっていた“何か”が
ふっと溶けていくような感覚。
きっとそれは、
言えなかった「ありがとう」が、ようやく届いた瞬間だったのでしょう。
兄弟という存在は、
記憶そのものなのかもしれません。
同じ風景を歩き、
同じ空気を吸い、
同じ家で眠った日々。
それらすべてが、
兄弟の不在によって、音を失っていくように感じるのです。
でも、きっと本当は逆です。
その記憶は、いま、
「私ひとりの記憶」ではなくなった。
兄の分まで、生きた証として、
私のなかで息をしている。
そして、
あの頃の景色を、
これからは「語り継ぐ者」として、私は生きていくのです。
兄弟との別れは、
自分の半身を失うような痛みがあります。
でも、どうか忘れないでください。
その人がいなければ、
あなたは今のあなたではなかったということ。
だからこそ――
これからのあなたの一歩は、
“ふたり分の時間”を生きることになるのです。
涙がこぼれる夜も、
懐かしさで胸がきしむ日も、
どうか、その痛みごと、抱きしめてみてください。
それがきっと、
“命をつなぐ”ということなのですから。
格言
「兄弟とは、記憶の中に眠る、もう一人の自分である。」
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RMA戦略家
岩根 央