親と子の狭間で — 第④章 和解編
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
親と子の狭間で — 第④章 和解編
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
親と子の狭間で — 第④章 和解編
「理解は一瞬、和解は旅である。」
和解とは、
手を取り合うことでも、抱きしめ合うことでもない。
ましてや、
昔のように戻ることでもない。
和解とは、
二つの心が“同じ痛みを知った者同士”として
静かにうなずき合えるようになること。
そのうなずきは、
声にならない。
その瞬間は、
派手には訪れない。
だが、それは人生の中でもっとも深く、
もっとも美しい瞬間だ。
■ 理解は一瞬で起きる
理解というものは、不思議だ。
長い年月をかけて分かるようで、
実は“一瞬”で訪れる。
ある言葉、
ある沈黙、
ある振り返り、
ある後悔、
あるニュース、
ある人生の転機。
ふと、
「ああ、この人も傷んでいたのだ」と
腑に落ちる瞬間がある。
その一瞬を境に、
世界の見え方が変わる。
理解は光だ。
一筋の光が差し込むだけで、
暗がりの輪郭が変わる。
■ しかし、和解は旅でしか訪れない
理解が“一点”なら、
和解は“道”である。
理解したからといって、
すぐに心がすっきりするわけではない。
理解したからといって、
昨日の傷が今日の朝に消えることもない。
理解とは入り口であり、
和解とは歩みだ。
その歩みはゆっくりでいい。
途中で止まってもいい。
戻っても、また進み直してもいい。
和解は距離ではなく、
方向をそろえること だから。
■ 和解は「勝ち負け」を手放すところから始まる
親子が和解できない最大の理由は、
どちらも無意識のうちに
“正しさの座標” に縛られているからだ。
「あの時は親が間違っていた」
「お前もあの時はひどかった」
勝ち負け、正しい・間違いの整理は、
心を軽くするようで、実は重くする。
和解とは、
正しさの争いを下りること。
その瞬間、
心に初めて風が通る。
■ 和解は、距離が縮まることではなく「距離の意味」が変わること
和解したからと言って、
頻繁に会う必要はない。
なんでも話し合う必要もない。
和解とは、
距離の“近い・遠い”の問題ではない。
距離が「安全なもの」に変わること。
離れていても、
過去に縛られずに呼吸できる関係になること。
たとえ物理的に離れていても、
心の距離は穏やかに整う。
その変化こそが、
和解の真の姿である。
■ 和解は、必ずしも「相手」との間に起こるとは限らない
和解は、
相手が生きている間に必ず起こるものでもなければ、
相手が関わってくれる必要もない。
和解とは、
自分が自分と折り合いをつける行為 でもある。
過去の自分、
傷ついた自分、
求めていた自分、
期待に応えられなかった自分。
その全てを受け容れ、
「もう責めなくていいよ」と
静かに言えるようになった時──
和解は、その瞬間に完成する。
■ 和解編の結び — 見えないところで結ばれる縁
親と子の関係は、
言葉で決着がつくものではない。
人生の深いところで、
静かに縁が結び直される。
謝り合わなくてもいい。
抱き合わなくてもいい。
昔に戻らなくてもいい。
ただ、
お互いの人生を尊重できるところまで
心が育つこと。
それが和解だ。
和解とは、
心が成熟した者だけが辿り着ける“静かな聖域” である。
そしてその聖域は、
いつだって自分の内側にある。
格言
「和解とは、心の奥でそっと手を取り直すこと。姿は変われど、縁は静かに続いていく。」
୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧
RMA戦略家
岩根 央