親と子の狭間で — 第④章 和解編

親と子の狭間で — 第④章 和解編

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親と子の狭間で — 第④章 和解編

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親と子の狭間で — 第④章 和解編

「理解は一瞬、和解は旅である。」

和解とは、
手を取り合うことでも、抱きしめ合うことでもない。

ましてや、
昔のように戻ることでもない。

和解とは、
二つの心が“同じ痛みを知った者同士”として
静かにうなずき合えるようになること。

そのうなずきは、
声にならない。

その瞬間は、
派手には訪れない。

だが、それは人生の中でもっとも深く、
もっとも美しい瞬間だ。

■ 理解は一瞬で起きる

理解というものは、不思議だ。
長い年月をかけて分かるようで、
実は“一瞬”で訪れる。

ある言葉、
ある沈黙、
ある振り返り、
ある後悔、
あるニュース、
ある人生の転機。

ふと、
「ああ、この人も傷んでいたのだ」と
腑に落ちる瞬間がある。

その一瞬を境に、
世界の見え方が変わる。

理解は光だ。
一筋の光が差し込むだけで、
暗がりの輪郭が変わる。

■ しかし、和解は旅でしか訪れない

理解が“一点”なら、
和解は“道”である。

理解したからといって、
すぐに心がすっきりするわけではない。

理解したからといって、
昨日の傷が今日の朝に消えることもない。

理解とは入り口であり、
和解とは歩みだ。

その歩みはゆっくりでいい。
途中で止まってもいい。
戻っても、また進み直してもいい。

和解は距離ではなく、
方向をそろえること だから。

■ 和解は「勝ち負け」を手放すところから始まる

親子が和解できない最大の理由は、
どちらも無意識のうちに
“正しさの座標” に縛られているからだ。

「あの時は親が間違っていた」
「お前もあの時はひどかった」

勝ち負け、正しい・間違いの整理は、
心を軽くするようで、実は重くする。

和解とは、
正しさの争いを下りること。

その瞬間、
心に初めて風が通る。

■ 和解は、距離が縮まることではなく「距離の意味」が変わること

和解したからと言って、
頻繁に会う必要はない。
なんでも話し合う必要もない。

和解とは、
距離の“近い・遠い”の問題ではない。

距離が「安全なもの」に変わること。
離れていても、
過去に縛られずに呼吸できる関係になること。

たとえ物理的に離れていても、
心の距離は穏やかに整う。

その変化こそが、
和解の真の姿である。

■ 和解は、必ずしも「相手」との間に起こるとは限らない

和解は、
相手が生きている間に必ず起こるものでもなければ、
相手が関わってくれる必要もない。

和解とは、
自分が自分と折り合いをつける行為 でもある。

過去の自分、
傷ついた自分、
求めていた自分、
期待に応えられなかった自分。

その全てを受け容れ、
「もう責めなくていいよ」と
静かに言えるようになった時──

和解は、その瞬間に完成する。

■ 和解編の結び — 見えないところで結ばれる縁

親と子の関係は、
言葉で決着がつくものではない。

人生の深いところで、
静かに縁が結び直される。

謝り合わなくてもいい。
抱き合わなくてもいい。
昔に戻らなくてもいい。

ただ、
お互いの人生を尊重できるところまで
心が育つこと。

それが和解だ。

和解とは、
心が成熟した者だけが辿り着ける“静かな聖域” である。

そしてその聖域は、
いつだって自分の内側にある。

格言
「和解とは、心の奥でそっと手を取り直すこと。姿は変われど、縁は静かに続いていく。」

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RMA戦略家
岩根 央

岩根央

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