子どもを見送るという祈り
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子どもを見送るという祈り
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家族の死を前に
第4章:子どもを見送るという祈り
この世において、
「順番が違う死ほど、苦しいものはない」と言われます。
子どもの死。
それは、親として最も耐えがたく、
理屈では到底納得できない、“魂をえぐる別れ”です。
親は、子を守るために生きている。
命を分け、愛を注ぎ、未来を願い続ける。
…それなのに。
自分より先に旅立ってしまうその背中を、
見送らねばならないとき――
人生は、沈黙とともに崩れ落ちるのです。
子どもの死に向き合うことは、
「愛のすべてを抱えて、何もできない自分」を直視することです。
そこには怒りがあり、悲しみがあり、無力感があり、
そして、どうしようもない“空”があります。
でも、魂の視点から見つめ直したとき、
この出来事は、違った意味を持ちはじめるのです。
もしかしたら、
その子は**“生きていた時間の長さ”ではなく、
果たすべき役割を全うするために**生まれてきたのかもしれません。
短くても、深くて濃い、魂の契約。
「この子と出会えてよかった」
その想いが残っているなら、
きっと、あの子は**“完成された光”**として旅立っていったのです。
私の知人に、
愛する息子を病で失った方がいます。
まだ十代。
夢の途中でした。
彼女はしばらく何も話せず、何も書けず、
まるで世界がモノクロになったような目をしていました。
でもある日、ぽつりとこう言ったのです。
「この子は、私の魂を目覚めさせに来てくれたのかもしれない」
「悲しみの向こう側に、愛が残っているの…そう思うの」
その言葉を聞いたとき、私は涙が止まりませんでした。
それは、
“悲しみを超えてなお、生きることを選んだ魂の言葉”だったから。
子どもの死とは、
親の魂を深く揺さぶりながら、
“生きる意味そのもの”を再構築させるような出来事です。
だからこそ、それは、ただの「別れ」ではなく
魂の契約の完成なのかもしれません。
あの子は今も、
空のどこかで笑っているでしょう。
そしてきっと、こう言っています。
「ありがとう、パパ」
「ありがとう、ママ」
「生まれてこれて、よかったよ」って。
親の涙は、永遠の祈りです。
その祈りは、必ず、あの子の光となって、
これからもあなたを照らし続けるでしょう。
いま、もし子どもの死に向き合っている方がいたら――
どうか、無理に前を向かなくていいのです。
愛するということは、時に「痛みを抱えて生きること」。
でも、
あなたがその子を想う気持ちがある限り、
その子の存在は「今も生きている」のです。
どうか、その手を胸にあてて、
静かに、こう祈ってみてください。
「ありがとう。愛してる。あなたのこと、決して忘れない」と。
それだけで、十分なのです。
格言
「子どもは、愛の純粋な結晶であり、祈りの中で生き続ける魂である。」
🌙最後に
《光は、見えなくなっても》
見えなくなっても
あなたは そこにいる
声が届かなくても
あなたの名は 心の奥に響いてる
触れられなくても
手のひらの温もりは まだ残っている
時が過ぎても
あなたと過ごしたあの瞬間は
永遠の花のように咲き続ける
わたしは あなたを忘れない
わたしは あなたの一部として
今日も静かに、生きている
だから――
どうか安心して、旅立ってほしいのです
また どこかで
光の中で
きっと 会えるから
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RMA戦略家
岩根 央