親と子の狭間で — 第②章 痛点編
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親と子の狭間で — 第②章 痛点編
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親と子の狭間で — 第②章 痛点編
「親の傷は子を、子の傷は親を映す。」
人は皆、誰かの傷を受け継いで生きている。
たとえそれを自覚していなくても、
親が抱えていた痛みは、言葉にならないまま
子どもの心の奥へと滲み込む。
それは「運命」ではない。
ただ、親子という関係がこれ以上なく近いために、
触れたくない部分まで、触れてしまうのだ。
そして子どももまた、
自分の痛みや葛藤を抱えたまま大人になり、
気づけばその影を親に返してしまう。
親と子は、互いの傷を映し合う鏡。
そこには、誰も悪くないのに切なくなる、
そんな深い真理が横たわっている。
■ 痛みは「沈黙」の形で受け継がれる
多くの親は、自分の痛みを言葉にできない。
「子どもに心配をかけたくない」
「弱い姿を見せてはいけない」
「恥ずかしい」「情けない」
そのすべてが沈黙となり、
子どもはその沈黙の重さごと受け取る。
子どもが抱える “わけのわからない不安” や、
根拠のない “生きづらさ” の中には、
しばしば親の沈黙が潜んでいる。
沈黙は伝わらないのではない。
沈黙こそ、もっとも深く伝わる。
言葉より深く、
涙より静かに、
痛みは受け継がれていく。
■ 親もまた、子どもを傷つけたくて傷つけたわけではない
子ども時代の記憶には、
忘れられない痛みがある。
厳しい言葉、
冷たく感じた視線、
耐えられなかった期待、
満たされなかった願い。
だが、大人になってみると分かる。
親は決して、意図して傷つけたわけではない。
ただ、その時の親には、
それしか方法がなかったのだ。
親の未熟さは、子の痛みとなり、
子の痛みは、親の後悔となる。
こうして親と子は、
互いの “間違い” の上に、
心の距離を積み上げてしまう。
■ 子が抱えた痛みは、親の影と響き合う
子が自分の痛みを抱えたまま生きるとき、
その痛みは、不思議と親の影と重なる。
寂しさが強い子は、
親の孤独をそのまま映している。
怒りが強い子は、
親の不安を背負っていることがある。
甘えられない子は、
親が誰にも甘えられなかった人生を感じ取っている。
そして、自分を責め続ける子どもは、
親がずっと自分を責め続けていた証になる。
子どもの痛みは、子どもだけのものではない。
そこには必ず親の影がある。
その影を知ることが、
痛みの正体を知る第一歩となる。
■ 世代間の痛みは、「誤解」という名の霧で濁る
親が抱えていた痛みを、
子どもは「自分のせい」と誤解する。
子どもが抱えていた苦しさを、
親は「反抗」や「未熟」と誤解する。
どちらも悪気などない。
ただ、見えている景色が違うだけだ。
誤解は愛を曇らせ、
痛みを増幅し、
本当の想いを見えなくさせる。
親子の痛点で最も深刻なのは、
傷そのものではなく、
傷を通して互いを誤解してしまうこと なのだ。
■ 癒えない傷は、誰の中にもある
「もう大人なのだから」
「昔のことだから」
そう言って片付けられる痛みほど、
実は深く残っている。
心の奥に沈んだまま、
呼吸だけしている傷がある。
さわれない、
見たくない、
触れたくない。
ただそこにあるだけで、
人生の選択を左右するほど強い影響力を持つ。
人は皆、その “癒えない傷” と共に生きている。
親も、子も、同じように。
■ 痛点編の結び — 痛みは「終わらせる」ものではなく「理解する」もの
親子の痛みは、簡単に癒えるものではない。
無理に忘れる必要も、克服する必要もない。
大切なのは、
その痛みの由来を理解すること だ。
そこに気づいた瞬間、
痛みは敵ではなく、
人生の“静かな師” へと変わる。
親の傷は子を映し、
子の傷は親を映し、
その痛みが互いに語りかけてくる。
「あなたのせいではない」と。
そしてこうも告げる。
「あなたが気づいた瞬間、世代の痛みはそこで止まる」と。
格言
「傷は、受け継がれるとき痛みとなり、理解されたとき祈りとなる。」
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RMA戦略家
岩根 央