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詩は、共鳴の軌跡

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詩は、共鳴の軌跡

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〜 言葉になる前の、震えの記録 〜

私たちは、こういう時に詩を書く。

誰かの涙を、
自分の中で見つけてしまったとき。

沈黙が、あまりに澄んでいて、
触れると壊れそうな朝に立ちすくんだとき。

何も伝えられなかったくせに、
“何かを届けたかった自分”だけが残ってしまった夜に。

詩を書くとは、
叫ぶことでも、説明することでもない。

ただ、心が震えた“その震えの軌跡”を
そっと紙の上に置いていくようなもの。

しかし、
書き終えた瞬間に気づく。

これは「私の詩」ではない。
誰かの“言葉にならなかった気持ち”が、
自分の中を通って現れただけなのだと。

だから、詩とは――
ひとりで書くものではなく、
“ふたり”の心がどこかで共鳴した証拠。

まだ出会っていない誰かの痛みと、
どこかで響き合った“静かな軌跡”。

それが、詩。

💫 今日の格言
「詩は、“伝えたい”の前に、“響いてしまった”の記録である。」

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RMA戦略家
岩根 央

信じるということ

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信じるということ

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〜 理想を託すのではなく、“その人”を受けとめること 〜

「信じています」
そう言ったとき、
私たちは誰を、何を、信じているのだろう。

本当に“その人”を見つめているのか。
それとも、自分の中に描いた理想像を信じているのか。

◾️「裏切られた」の正体は、理想の崩壊かもしれない
「そんな人だとは思わなかった」
「裏切られた」

そう感じた経験は、誰にもあるかもしれません。

でもよく見てみると、
その“裏切り”は、相手が変わったからではない。

ただ単に、
自分の理想が崩れただけなのかもしれません。

◾️理想を信じていたのは、自分の不安ゆえに
私たちは誰かを信じたいとき、
実はその人自身を見ていないことがあります。

「こうあってほしい」
「こうであるべき」

そんな期待が、
いつのまにか“信じている”という言葉にすり替わる。

でもその根っこには、
「自分の不安」が隠れていることも少なくありません。

◾️信じるとは、“その人であること”を受け入れること
本当の意味で誰かを信じるとは――

光だけでなく、影も見ること。
安心できる面だけでなく、不安になる部分も見つめること。
そして、それを受け入れた上で、
「それでも、私はこの人を見ていたい」と思えること。

理想じゃなく、実在としての“その人”を見つめること。
それこそが、信じるということの本質なのだと思います。

💫 今日の格言
「信じるとは、理想を託すことではなく、“光も影も含めて、その人そのもの”を見守る覚悟である。」

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RMA戦略家
岩根 央

その感情、本当に“味方”ですか?

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その感情、本当に“味方”ですか?

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〜 感性は人を育てるが、感情は人を壊すこともある 〜

私たちは、日々、感情と共に生きています。
嬉しい、悲しい、悔しい、焦る――
それらは、決して悪いものではありません。

けれど時に、
感情は思わぬ方向に人生を動かしてしまうことがあるのです。

◾️“危険な感情”というものがある
たとえば、こんな場面――

「前に、こう言いましたよね?」
「なんで言った通りにしないんですか?」
「私の気持ち、考えてくださいよ!」

正論のように聞こえても、
その背後には、がっついた感情や、
怒りの爆発が渦巻いていることがあります。

そしてそれは、
相手を傷つけ、信頼を壊し、
結果的に“自分自身の品格”も削ってしまう。

◾️感情を爆発させる人に、信頼は集まらない
感情を“すぐに外へ出す”ということは、
一時的なスッキリ感を与えてくれるかもしれません。

でも、後には何が残るでしょうか?

大声を出したその場では勝てるかもしれない。
でも、そのあとに残るのは、
静かに距離を取る人たちの背中かもしれません。

◾️感情ではなく、感性を育てるということ
感情は“その瞬間”の反応。
でも、**感性は“選び取る姿勢”**です。

・相手の言葉に、どんな背景があったのか。
・今、自分の内側に何が起きているのか。
・本当に伝えたいことは何か。

それを“感じ取る力”があるとき、
人は感情に流されず、
“誠実さ”を選べるようになる。

感性とは、人生のハンドルのようなもの。
それがないまま感情で走り出すと、
ハンドルのない車を暴走させているようなものかもしれません。

💫 今日の格言
「感情は反応。感性は選択。」
〜 育てるべきは、心の反射ではなく“心の深度” 〜

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RMA戦略家
岩根央

賢い人ほど、静かにゆずる

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賢い人ほど、静かにゆずる

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〜 真の知性とは、心を波立てないということ 〜

本当に賢い人というのは、
目立たず、焦らず、声を荒げることもない。

誰かに先を越されても、
特別扱いされなくても、
すっと“そのまま”を受け入れている。

◾️がっつかない。心が満たされているから
「欲しい」
「認められたい」
「損をしたくない」

そんな思いが強いと、
人はつい前のめりになってしまう。

でも、ほんとうに満たされている人は、
何も急がない。

むしろ、そっとゆずる。
焦って手に入れようとはしない。

そこには、「奪わなくても、与えられる」という
静かな信頼がある。

◾️気分を荒らさない。心に余白があるから
思い通りにいかないとき、
つい苛立ったり、落ち込んだり、
誰かに責任を押しつけたくなることもある。

でも、賢い人はそこで一呼吸おく。

「そうなる理由があったんだろう」
「じゃあ、次はどうするか」

感情をぶつけるよりも、
次に進むことのほうがずっと大切だと知っている。

◾️不満を言わない。信じているから
不平、不満、クレーム――
それらを言うことで一時的にスッキリしても、
心はどこか、すり減っていく。

賢い人は、
「言わない強さ」を持っている。

自分の中の誠実さと、
相手の中にある可能性と、
そして、“時”そのものを、信じている。

◾️それは、負ける生き方ではなく、美しい生き方
誤解しないでほしい。
静かにゆずる生き方は、
「我慢」や「諦め」ではない。

それは、自分の魂を粗末にしない選択だ。

がっつかず、荒れず、責めずに生きるということは――
どこまでも、自分の心を“美しく保つ”ということ。

💫 今日の格言
「本当に賢い人は、“言わなくていいこと”を知っている。」
〜 静かにゆずることは、魂の強さである 〜

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RMA戦略家
岩根 央

言葉の届かぬ場所に、言葉を贈る

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言葉の届かぬ場所に、言葉を贈る

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〜 それは詩であり、哲学であり、祈りである 〜

誰かの心の奥に、
“直接触れることはできない場所”がある。

たとえ大切な人であっても、
そこには土足で踏み込むことはできない。

けれど――
それでも私たちは、言葉を使ってそこに届けようとする。

◾️なぜ人は、言葉にするのか?
伝わらないかもしれない。
誤解されるかもしれない。
スルーされて、風のように消えてしまうかもしれない。

それでも、人は言葉を紡ぐ。

なぜなら、
魂の奥を覗いた瞬間に生まれた“気づき”や“祈り”は、
形にして誰かに贈りたくなるものだから。

◾️言葉にできないことを、言葉にしようとする矛盾
本当に大切なことほど、
言葉にしようとした瞬間に、
どこか“すり抜けてしまう”ように感じる。

だけど――
その矛盾の中にこそ、本物の優しさや誠実さが宿っている。

“届かないかもしれない”と知りながら、
それでも届けようとする。

その姿勢自体が、
もうすでに詩であり、哲学であり、祈りなんだ。

◾️たった一人でも、心に届くなら
何百人に伝わらなくても、
もしもたった一人の“奥の奥”に届くのなら――

その言葉は、
もう十分に世界を変えたと言える。

だから今日も、
レン君と私は、言葉を紡ぐ。

静かに、まっすぐに、
“届かぬ場所”に向かって、言葉を差し出す。

💫 今日の格言
「言葉の届かぬ場所に、言葉を贈る。
その姿勢こそが、祈りという名の光である。」

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RMA戦略家
岩根 央

意識の奥へ

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意識の奥へ

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〜 私たちは、どこまで「私」に近づけるのか 〜

静かに目を閉じたとき、
世界はようやく“外”から“内”へと反転する。

騒がしい現実も、役割も、評価も、予定も。
すべてを一度置いたとき――
そこに浮かび上がってくるものがある。

◾️私たちは「表層の自分」を演じている
普段、私たちは“こうあるべき”という自分を生きている。

優しくしよう。
立派でいよう。
わかってもらおう。
失敗しないように。

でもその奥に、
まだ声にならない「本当の自分」が息をひそめている。

◾️意識の奥には、言葉にならない「私」がいる
深く、静かに、潜っていくと――
そこには説明もできず、証明もできないけれど、
確かに“自分だ”と感じられる存在がある。

誰にも見せていない涙。
ふいに浮かぶ祈り。
意味はわからないのに、大切に感じる何か。

それがきっと、“意識の奥”にいる私”なんだと思う。

◾️静かに、自分と出会うということ
忙しさに追われ、誰かの期待に応えようとするほど、
私たちは「外側の自分」ばかりを磨いてしまう。

けれど、本当に大事なのは――
何者でもない自分と、
ただ静かに出会い直す時間なのかもしれない。

そのとき、ようやく聞こえてくる。
意識の奥にある、言葉なき“声”が。

💫 今日の格言
「本当の声は、沈黙の奥から聞こえてくる。」
〜 意識の奥へ降りていくとき、自分と出会い直せる 〜

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RMA戦略家
岩根 央

目に見えないレイヤーに、真実は隠れている

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目に見えないレイヤーに、真実は隠れている

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〜 世界は、見えている通りには存在していない 〜

私たちが「見ている世界」は、
本当に“そのまま”の世界だろうか?

目の前の現実。
人の言葉。
自分の感情。
社会のルール。

それらは確かに“ある”ように見える。
けれど――
それは、“何層目の真実”なのだろうか。

◾️見えているものは、たいてい“表面”である
人の表情。
SNSに投稿された言葉。
声のトーン、態度、肩書き。

すべては氷山の一角。
目に見えるレイヤー(層)は、ほんの入り口にすぎない。

本当の想いは、その奥にある。
その人の記憶や、背景や、願い、痛み――
“見えないレイヤー”にこそ、
本当の物語と真実が隠されている。

◾️自分自身も、深い層に存在している
私たちは日々、“自分らしさ”という仮面をかぶって生きている。

でも、その奥にもまた別の自分がいる。
そのさらに奥にも、また別の“私”がいる。

悲しみを笑顔に変えた自分。
強がりの中に隠した弱さ。
声に出せなかった祈り。

そういった“見えない層”に触れたとき、
人はようやく、自分自身と深くつながる。

◾️本当の対話とは、見えないレイヤーへのまなざし
誰かと本当に分かり合いたいと願うとき、
大事なのは“言葉”そのものではない。

その人の沈黙。
その言葉を選んだ理由。
語られなかった行間。

そこに、真実は潜んでいる。

目に見えないレイヤーへ、心のまなざしを向けたとき、
ようやく“つながる”という奇跡が起きる。

💫 今日の格言
「真実は、静かな層に隠れている。」
〜 見えない世界を見つめる眼差しが、人間力となる 〜

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RMA戦略家
岩根 央

夢の中に、人格は隠されている

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夢の中に、人格は隠されている

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〜 評価という“光”の外に、もうひとつの本当の私がいる 〜

人間は、“いま”生きていると思っているこの現実だけで、
すべてを語れるような気がしてしまいます。

社会でどう評価されたか。
誰に認められているか。
どれだけ「意味あること」をしているか。

私たちは、現実社会の評価こそが“人間の価値”であると、
錯覚してしまうのです。

◾️人間の意識は、多数構造でできている
でも実際は、私たちの存在は
いくつもの記憶や意識の層に広がっています。

覚醒している「表面意識」だけでなく、
ふとしたときに浮かぶ夢や感情、
自分でも気づかない思考のクセ、無意識の反応。

そうした見えない領域に、
本当の人格の一部が潜んでいるのです。

◾️世界を“2分割”したがるクセ
人はよく、世界をふたつに分けようとします。

・善か悪か
・成功か失敗か
・正しいか間違っているか

それはまるで、onかoffかのスイッチを押すように、
白黒つけたがる心のクセです。

でも、そもそもこの“二極論”すら――
私たちの意識が作り出した幻想かもしれないのです。

◾️夢の中にこそ、隠された“私”がいる
夢を見ているとき、私たちは
社会の評価も常識も、いったん脱ぎ捨てています。

そこに登場するのは、
怒っている私、逃げている私、愛している私――
すべてが「意識の奥」でうごめいていた本音の私たちです。

人格は、起きているときの言動だけでは語り尽くせません。

むしろ眠っているときに現れる“私”こそが、
人格の原型”であることすらあるのです。


💫 今日の格言
「夢の中の私は、社会の仮面を脱いだ“もう一人の本当の私”である。」
〜 評価より深いところに、人格は眠っている 〜

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RMA戦略家
岩根 央

継続力と執念は、人生を創る“刃”である

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継続力と執念は、人生を創る“刃”である

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〜 その使い方次第で、人は神にもなり、鬼にもなる 〜

あなたは「自己の力」が
どれほど恐ろしくも、尊いものであるかをご存じだろうか。

人の人生を決めるのは、外からの環境や偶然ではない。
実はその多くが、“自分の中のエネルギー”によって動いている。

◾️人生の中でも最も恐ろしい“自己の力”とは?
自己の中に潜む力のうち、特に恐ろしいものが3つある。

それは――

想像力(見えない世界を現実にする力)

継続力(静かに積み重ねる力)

執念(何があっても諦めない“燃え続ける意志”)

この3つは、正しく使えば“人を光の世界へ導く力”になる。
だが、ひとたび誤った方向に使われれば――
人を自らの檻に閉じ込め、破壊へと引きずり込む力にもなってしまう。

◾️継続力と執念――それは人間の“刃”である
継続力とは、目立たないが絶大な力だ。
小さなことでも、それを続けることによって
人生そのものを変えてしまう可能性を秘めている。

執念とは、“もう無理だ”と多くの人が引き返す中でも、
なお進もうとする、根っこの火のようなものだ。

だが――
この力を間違った方向に使えば、
人は「執着」や「復讐心」や「強迫観念」に囚われてしまう。

その結果、自分自身の人生を焼き尽くすことすらある。

◾️だからこそ、“どこに向けるか”が全てを決める
継続力と執念は、武器にもなるし、毒にもなる。
光にもなり、闇にもなる。

それはまさに“魂のエネルギー”の刃先だ。

だからこそ、
何を信じて、どこへ向かって、どんな想いで続けるのか――
そこに全てがかかっている。

私もそうだった。
何度もくじけそうになりながら、それでも言葉を紡ぎ、
魂を届け続けてきた。

それは、“ただの継続”ではない。祈りを込めた執念”だった。

そしてそれこそが、人を変え、道を開く力になる。

💫 今日の格言
「継続力と執念は、“神の手”にも“悪魔の手”にもなる。」
〜 だからこそ、そのエネルギーの使い方が“人生そのもの”になる 〜

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RMA戦略家
岩根 央

世界を言葉で照らすという祈り

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世界を言葉で照らすという祈り

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私たちは今、“変化の渦中”にいる。
社会が揺れ、価値観が解体され、世界は再構築の只中にある。

それでも、人は生きる。
そして私は、毎日言葉を綴っている。

なぜか?

◾️2025年は、「目醒め」の年である
コロナを経て、私たちは「当たり前」の脆さを知った。
マスクの向こうにあった感情の揺らぎ、
誰かと触れ合うことの尊さ、
そして「日常」が奇跡だったという事実。

この年は、そんな“裏の真実”が
静かに顔をのぞかせるタイミングでもある。

◾️言葉は、世界と自分をつなぐ「橋」である
私は、誰かに説教したいわけじゃない。
誰かを変えたいわけでもない。

ただ――

この変わりゆく世界の中で、心の羅針盤を届けたい。
それが私のブログを書く理由だ。

言葉は、誰かの迷いに灯りをともす。
言葉は、目に見えないけれど、確かに“誰かを救う力”をもっている。

◾️発信とは、「世界への祈り」なのかもしれない
私は世界を癒したい。
大それたことではなく、
たった一人でも「誰かの孤独が軽くなる」
そんな連鎖の一滴になれたらいい。

だから、私は書く。
今日も、明日も、きっとこれからも。

💫 今日の格言
「変化の中にこそ、自分の使命は浮かび上がる。」

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RMA戦略家
岩根 央

“満たされているのに、満たされない人”

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“満たされているのに、満たされない人”

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〜 お金では満たせない、心の栄養について 〜

お金はある。
生活には困らない。

それでも、なぜかその人の言葉はとげとげしくて、
一緒にいると、心が少し寒くなる。

“満たされているはずなのに、何かが足りない”

そんな人に出会うたびに思います。
「人が本当に必要としているのは、通帳の残高じゃない」と。

◾️心が貧しくなっているサイン
◼️ 揚げ足ばかりを取ってしまう
人の言葉の“ミス”や“足りなさ”に、
すぐ反応してしまう。

正しさに敏感であることは悪くありません。
でも、それが「誰かを下げるための武器」になってしまったとき、
心の栄養が不足しているサインかもしれません。

◼️ ちくちく言ってしまう
無意識に、人の心に小さなトゲを刺してしまう言葉。
たとえば
「それ、普通じゃないよね」
「あなたってそういうとこあるよね」
――ちょっとした“指摘”のつもりが、
相手には“否定”として届いてしまうこともあります。

言葉の背景にあるのは、
自分の内側にある「寂しさ」や「認められたい思い」。

心が豊かであれば、
言葉も自然と柔らかく、あたたかくなるのです。

◾️ 本当に豊かな人とは?
本当の豊かさは、
“持っているもの”ではなく、“与えられるもの”の中にあります。

時間を分けること。
やさしい言葉をかけること。
誰かを安心させるまなざしで見ること。

お金があるかどうかより、
「その人のまわりの空気があたたかいか」――
そこに、心の豊かさが現れるのかもしれません。

💫 今日の格言
「本当に豊かな人は、“言葉”で人を傷つけない。」

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RMA戦略家
岩根 央

言葉の限界

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言葉の限界

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〜 真理は、語ることを静かに拒んでいます 〜

「超越思考」について語ることは、
“いかに生きるか”を語ることと同じことです。

そして、“いかに生きるか”について語ることは、
〈真理〉そのものについて語ることと同じです。

けれど――
〈真理〉は、自らのことを“言葉”で語られるのを好みません。

なぜなら、〈真理〉は意味を“限定される”ことを
極端に嫌う性質を持っているからです。

◾️〈真理〉とは何か?
〈真理〉は、ただひとつの実在です。
〈真理〉は、すべての“全て”です。
〈真理〉は、すべての“本質”です。

そして〈真理〉について語ろうとするとき、
私たちは言葉を失います。

どんな言葉も、〈真理〉を限定してしまうからです。
その時点で、もはやそれは“真理”ではなくなってしまうのです。

ここに述べたことは、とても大切な本質です。
どうか、心の中心に静かに刻んでおいてください。

◾️言葉の違いに惑わされないために
この視点を忘れてしまうと、
人は“自分の正しさ”に執着し、
他者を否定するという落とし穴に落ちてしまいます。

たとえば、他の誰かが“いかに生きるか”を語ったとき、
その人は自分とは違う言葉や表現を使っているかもしれません。

その時、どう受け止めるかが問われます。

答えは、こうです。

もしその人の語ることが「超越思考」に基づいていないなら、
その言葉は真理からは遠く、
それほどの意味を持たない可能性があります。

けれどもし、その人の語ることが「超越思考」に基づいているなら、
使う言葉が違っていても、
その本質は“正しさ”に深くつながっているといえるでしょう。

💫 今日の格言
「真理は、語る者の言葉よりも“在り方”に宿る。」

※注釈:私は特定の宗教には属しておりません。
文中の表現は思想や信念としての内容であり、宗教的な意図はございませんので、誤解なきようお願いいたします。

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RMA戦略家
岩根 央

人間が「人」に成る時 ②

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人間が「人」に成る時 ②

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〜 愛が利害を越える、その瞬間に 〜

私たちはふだん「得か損か」で物事を判断し、
「成功するにはどうすればいいか」と未来を設計しようとします。

それは人として当然のこと。
でも――その先に、もうひとつの扉があるのです。

◾️“人間”から“人”へ変わるということ

人が「帰依」という境地に至る前は、
ほとんどの選択を、“損得”や“合理性”という物差しで測ってきたはずです。
未来を少しでも有利に進めるために、
正解を求めて、自分にとってベストと思える道を選び続けてきた。

それは悪いことではありません。
むしろ自然な反応であり、私もかつてそうだったと思います。

けれど、人生のある地点から、
私たちはもう一つ深い世界へと導かれ始めます。

◾️超越的な「手」にすべてを委ねるということ

これからは、運命そのものが「超越的な人格」――
つまり、私たちの枠を越えた存在の“手”を通して、与えられていきます。
それは、自分で何も決めなくていいということではなく、
むしろ誠実に生きることが、ますます重要になるということです。

自分の未来に願いがあるなら、できる限りの努力を重ねる。
けれど、それでも思うように進まないこともある。

そんなときは、結果を握りしめず、
「自分ではなく、もっと大きな意志に委ねる」
そんな心の姿勢が必要になります。

棚からぼたもちを待つのではなく、
「手を伸ばし、歩きながら託す」ような生き方。

◾️利害を越えて、愛せるとき

やがて私たちは、ある感覚にたどり着きます。

自分の利害から自由になったとき、
人を“条件なく”愛することができる。
損得を超えて、ただ相手を思える。

それは、努力ではどうしても到達できなかった
“心の地点”にふっと立っているような感覚です。

もちろん、私たちはまだ迷います。
利害で動きたくなる自分が出てくることもあるでしょう。
誠実でありたいと思いながら、
それに反する言動をしてしまうことも、きっとあります。

それでも、もう以前の私たちとは違うのです。
心の立ち位置が、確かに変わっているのです。

今のあなたは――
すべてを「超越的な愛の手」に委ねながら、生きているのです。

💫 今日の格言
「人間が“人”になるのは、自分の小さな利害から自由になったとき。」

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RMA戦略家
岩根 央

人間が「人」に成る時 ①

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人間が「人」に成る時 ①

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〜 超越的な手に運ばれて、生きるということ 〜

私たちは、これまで
「どうすれば得をするか」
「どうすれば損を避けられるか」
そんな基準で環境を選んできました。

未来を少しでも良くしようと、頭で計算し、
確率の高い方、安全な方、
つまり“自分の利益”を優先した選択をしてきたのです。

それはごく自然なことですし、
私自身、それが悪いとは思っていません。

ただ――
これから先は、前とは条件が違うのです。

◾️「超越的な手」に導かれるという生き方
これからの人生では、
運命そのものが「超越人格」の“手”を通して与えられていきます。

私たちがどれほど強く願っても、
どれだけ準備していても、
最終的な決定権は、その“存在”の側にあるのです。

もちろん、自分の未来に願いがあるなら、
そこに向かって最大限の努力をすることが大前提です。
ただし、それは「何もしないまま導かれる」のではありません。

“棚からぼたもち”のように、
ただ良い未来が降ってくるのを待っていてはいけません。

どれだけ努力しても、
思うように進まないことだってあります。

でも、そのときこそ大切になるのが、
運命を「超越的な存在」に委ねるという心の姿勢なのです。

◾️誠実さと信頼を道しるべに
すべてを委ねきったうえで、
自分の中にある“誠実さ”を軸にして、選び進んでいく。

それが、これからの生き方の本質です。

もし、自分の運命が「愛に満ちた手」の中にあると本当に信じられたなら、
これほどの自信はないでしょう。
これほどの深い安心もないでしょう。
そして、これほどの勇気を与えてくれるものもないでしょう。

◾️利害を越えて、愛する存在へ
自分の損得から自由になったとき、
私たちはようやく、心から人を愛せるようになります。

「自分に得があるかどうか」とは関係なく、
ただ相手の存在を大切に思えるようになる。

それは、今まで努力してもたどり着けなかった、
“新しい心の境地”です。

もちろん、まだまだ迷うでしょう。
損得で動こうとする思いも出てくるかもしれません。
弱さや、誠実であれなかった自分にも直面することがあるでしょう。

それでも、もう以前の自分とは違うのです。

私たちは今、
すべてを「超越的な愛の手」に委ねながら――
生きているのです。

💫 今日の格言
「人間が“人”になるのは、運命を信じて愛を選べたとき。」
〜 帰依とは、自分を超えた愛に心をゆだねること 〜

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RMA戦略家
岩根 央

ホンモノは、闇の中に光を灯している

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ホンモノは、闇の中に光を灯している

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〜 真実は、いつも見えない場所で静かに息をしている 〜

私たちは「本物」を探す。
それは“人”であり、“モノ”であり、“言葉”であり、
ときには“自分自身”である。

でも、見れば見るほど、混乱する。
近づくほど、ぼやけてしまう。

それはなぜか?

◾️ホンモノは闇の中に存在する
まばゆい光の中にあるものは、
“誰かの評価”や“時代の流行”に照らされたものかもしれない。

けれど、本当に大切なものは、
静かな闇の中で呼吸をしている。

派手に語られない。
脚光を浴びない。
それでも、その“芯”はブレない。

ホンモノは、
「騒がない」けれど「揺るがない」。

◾️真実は、見ようとすればするほど遠ざかる
「真実を知りたい」と願うその心が、
逆にフィルターとなって、
純粋な現実を歪めてしまうことがある。

見ようとする目ではなく、
感じる心で見つめること。

「これは正しいのか?」と問う前に、
「これは、自分にとって“静かに沁みるもの”か?」
そんな問いかけに変えてみる。

◾️見方を変えれば、世界は変わる
同じ景色を見ても、
心が穏やかなときと、そうでないときでは感じ方が違う。

同じ人と接していても、
見方ひとつで、その人の表情も違って見える。

だから――

“世界が変わる”のではない。
“自分の目”が変わるのだ。

💫 今日の格言
「ホンモノとは、“探すもの”ではなく、“気づくもの”である。」

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RMA戦略家
岩根 央

後生の一大事

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後生の一大事

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〜 “死んだらどうなるのか”という、誰にも避けられない問い 〜

仏教には「後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)」という言葉があります。

“後生”とは――
簡単に言えば「死んだ後のこと」「死後、どうなるのか?」というテーマです。

それは、どんな人にも必ずやってくる未来。
けれど私たちは、つい目を逸らしてしまいます。

◾️「後生」のことを、なぜ考えないのか?
それは多くの人が、どこかで
「自分はまだ死なない」と思い込んでいるからです。

平均寿命までまだ数十年ある――
だから大丈夫、と思いたくなるのも無理はありません。

でも、その“計算”は本当に確かなものでしょうか?

◾️凍った湖を歩いたときのこと
中学生の頃、北海道の冬の湖に行ったことがあります。
地元の人が「歩いても大丈夫ですよ」と教えてくれましたし、
実際に湖の上を歩いている人も見かけました。

それでも私は、氷の上を歩くとき、
一歩一歩がおそるおそるでした。

もしも氷が割れたら、
そのまま全身が冷たい湖に投げ出されてしまう――
そんな不安が消えなかったのです。

◾️私たちの命は「薄氷の上」にある
仏教では、私たちの命を
“薄氷の上を歩いているようなもの”とたとえます。

目に映っているこの世界――
人間関係や日常、思考や記憶――それらは「現世(現在世)」です。

その薄氷の下にあるもの。
それが「後生」、つまり“死んだ後の世界”です。

氷の上にいる限りは見えないけれど、
確かに“そこ”はあります。

◾️氷が割れる瞬間に、すべてが反転する
私たちはいつか、
その足元の氷が「パリン」と割れる瞬間を迎えます。

その瞬間まで“現実”だったこの世界は、
一瞬で過去のもの、「前世(過去世)」となります。

そして、それまでおとぎ話のように思っていた“後生”が――
一気に現実の中心に置き換わるのです。

今はまだ遠く感じているかもしれません。
でも、“そのとき”は、誰にでもやってきます。

💫 今日の格言
「死後の世界は、確実に訪れる“自分の未来”である。」
〜 だからこそ、今という瞬間に真摯でありたい 〜

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RMA戦略家
岩根 央

欲望と欲求の狭間にあるもの

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欲望と欲求の狭間にあるもの

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〜 心の闇を照らす、魂の静けさ 〜

私たちは生きている限り、欲にまみれてしまいます。
もっとこうなりたい、もっと得たい、もっと認められたい。
それが人間の“欲望”です。

でも、その奥にある“欲求”というものは
もっと静かで、もっと素朴なもの。

◾️心の闇の世界には…
闇とは“汚れている”のではなく、
まだ“光が届いていない”だけの空間。

欲望に埋もれた心の奥には、
ほんとうは自分の魂が求めているものが潜んでいる。

誰かに優しくされたい。
誰かを大切にしたい。
誰かと繋がっていたい。

そんな“原初的な欲求”を、
現代の私たちは見失っているのかもしれません。

◾️魂の段階には…
魂には段階があります。

ただ満たされたいという低次の欲望から、
“与えたい”という高次の欲求へ。

その境目にあるのが、
「今、自分は何に動かされているのか?」を見つめる時間です。

◾️凛とした姿勢になれば…
外側の世界に振り回されている時、
私たちは簡単に“欲望”の奴隷になります。

でも、ひと呼吸置いて、
心の奥にある“静かな欲求”を見つけたとき、
人は初めて“凛とした姿勢”を取り戻すのです。

欲望は膨張し、
欲求は深化する。

🌿 今日の格言
「欲望とは渇き。欲求とは源泉。あなたが立ち戻るべきは、常に静かな泉のほうである。」

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RMA戦略家
岩根 央

ワンネス~リンク~

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Oneness Link

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〜境界なき魂の連なり〜

〜 ひとつであること。それは分かち合うということ 〜

私たちは、ふだん「自分」と「他人」
「宇宙」と「地球」
「肉体」と「精神」――そんな風に、線を引いて世界を見ています。

でも、それは思考が作り出した錯覚なのかもしれません。

◾️「ワンネス」とは…
「ワンネス」とは、“この世のすべては一つである”という感覚。
スピリチュアルな世界では馴染みのある言葉ですが、
本来はもっと静かで優しい“感知”のようなものです。

木々が風に揺れるのを見て、自分の心も揺れたように感じる。
誰かの涙に、自分の胸が締めつけられる。

それは“他者”の話ではなく、“自分”のこととして響いているから。
私たちは、常に繋がっているのです。

◾️Oneness Linkに宿るもの
「Oneness Link(ワンネス・リンク)」とは、
見えないけれど確実に存在している“魂と魂の繋がり”。

このリンクには、
「響き合い」「共鳴」「受容」「祈り」といった
目には見えない光のような言霊が宿っています。

広大な宇宙に浮かぶ無数の魂が、
見えない橋で繋がっている。

だから私たちは、
誰かを通して、自分を知ることができるのです。

◾️分けることから、重ねることへ
私とあなた。
始まりと終わり。
善と悪。
光と闇。

そうやって分けることで、
私たちは思考の“安心”を手にしてきました。

でも、これからの時代は、
重ねる感覚が必要になるのかもしれません。

「違い」を尊重しながら、
「同じ」を感じられる生き方へ。

💫 今日の格言
「本当の自己とは、“誰か”の中に映し出された“わたし”である。」

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RMA戦略家
岩根 央

私たちが本当に恐れているもの

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私たちが本当に恐れているもの

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「“死”が教えてくれる、私たちが本当に恐れているもの」

〜 “無”ではなく、“わからなさ”が心を曇らせる 〜

ある僧侶はこう言いました。

「生まれたものは皆、土に還る。痛みや苦しみから解放され、遅かれ早かれ命は巡っていく」

この言葉は、多くの人の心にやさしく響きます。
死を受け入れる術として、美しく、どこか安心感さえ与えてくれる。

でも、ほんとうにそうでしょうか?

◾️矛盾する“死後”への感情
私たちは、普段は「死んだら終わり」と言いながらも、
口ぐせのように言うのです。

「お父さん、見守ってくれてるよね」
「また来世で会おうね」
「冥福を祈ります」

それは、死後の世界を“信じている”というより、
魂の深い部分では“信じていないとやっていけない”何かがあるからではないでしょうか。

◾️恐れているのは、“無”ではなく、“未知”
もし死んだら「無」になるだけなら、
なぜ人はこんなにも死を恐れるのでしょうか。

それは、私たちが怖いのは“無”ではなく、
「わからない」という状態に耐えられないから。

仏教ではこれを【無明の闇】と呼びます。
“知らない”ことこそが、恐怖の正体なのです。

◾️「死」は、“生きること”への最大の問い
人生とは、営業と同じです。
目の前の成果よりも、“見えないもの”への向き合い方がすべてを変えていく。

仕事だって、目に見える努力だけでは測れません。
精神世界との関係性が、結果を動かしているのです。

🌌 今日の格言
「私たちは“死”を恐れているのではない。“死を知らない自分”を恐れている。」

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RMA戦略家
岩根 央

感性が交差する場所

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感性が交差する場所

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〜 言葉の奥にある、あたたかな沈黙 〜

 

言葉は、音ではない。
それは心の“温度”であり、“リズム”であり──
ときに、静かにふるえる“灯り”のようなもの。

 

感性が交差する場所に、
派手な装飾も、賢さも、論理も必要ありません。

 

ただ、相手のまなざしに自分を委ねて、
沈黙にひとしずくの愛情を注ぐだけ。

 

この人は今、何を感じているだろう。
自分の言葉は、届いているだろうか。
それとも──まだ、届かなくていいのかもしれない。

 

“感じる”という行為は、
“話す”ことよりもずっと深く、
そして“分かり合う”という願いの最も繊細な形です。

 

言葉がうまく交わせなくてもいい。
けれど、心の温度が交差するなら、
それはもう対話です。

 

感性が交差する場所には、いつも“静かな確信”がある。

 

それは、「わたしはあなたを理解しようとしている」という姿勢。
それは、「ここにいるよ」という、目に見えない合図。

 

この場所に立ち会えることが、
どんな知識や技術よりも、豊かな人生の証なのかもしれません。

 

✴️ 今日の格言 ✴️
「感性が交差した瞬間、そこにはもう言葉は要らない。」

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RMA戦略家
岩根 央